落合シェフ物語
story of chef ochiai
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プロローグ
そんな彼も、決して順風満帆にイタリア料理人の道を歩んできたわけではない。
どうして料理の道に進んだのか、なぜイタリア料理なのか、LA BETTOLAが「日本一予約が取れないレストラン」と呼ばれるようになった理由は…。
これらを本人から語ってもらいましょう。 -
若い両親の元に誕生
僕は、1947鎌倉に生まれ、1歳まで過ごしたあと、庶民的な下町、東京足立区本木に移り住み、そこで育った。
両親は高校の同級生同士で18歳で結婚して、僕を19歳で生んだ。僕は2歳の頃からカトリックの私立幼稚園に通っていて、本木では「おぼっちゃま」だった。というのは、祖父が本木でメッキ工場を営んでおり、小さい頃はたいへん羽振りがよかったのだ。両親も実質的に祖父に養ってもらっており、親子3人が扶養者だった。そのくせ、日曜日は両親と自動車に乗って浅草や上野に遊びに行ったものだ。そんな贅沢をしても大丈夫な幸せな時代だった。-
祖母とお宮参り
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おぼっちゃまの片鱗が?(2歳)
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祖父と一緒に(5歳)
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お祭りに参加(5歳)
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生活が一転
祖父が事業に失敗してから、生活が一変した。それは、僕が小学校1~2年生の頃だった。工場や住宅を失い、祖父は失意のうちに亡くなり、生活も厳しくなる一方だった。
僕は、小学校の頃わりと勉強ができたので、両親や祖母も期待し、進学塾に通わされ、私立の中学を受験した。そこは大学までエスカレーター式に行ける付属中学だったが、高校に入る頃に祖母も亡くなり、家のゴタゴタや肉親の死などで勉強をする気力も失せてしまった。-
中学1年生の頃
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父
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母と愛犬メリー
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料理に目覚めたのは
料理に目覚めたのは、中学のとき、父親に連れて行ってもらった近所の中華そばやで見た光景がキッカケ。そこの親父が炒飯を作る、魔法のような手際の良さに釘付けになった。トントンとネギを刻む速さや、中華鍋を振るうたびに飯粒が天を舞い、具と飯が混ざり合って鍋に戻る不思議。このとき、僕の脳裏には鮮明にこの光景や焼き付いてしまったのだ。
一人息子の僕には、家族みんながエリートの道を期待していたのだが、僕は正直学校へ通うのがつらかった。結局、家庭環境の変化も関係したのだが、高校を1年で中退し、料理の道に進んだ。もちろん、料理人にはなりたかったけど、高校をやめる口実が欲しかったのも本当だ。同じ料理人でも、父親は寿司職人を勧めていたんだけどね。 -
見習いから料理人の道へ
知人の紹介で日本橋のレストランに見習いで入ったが、そこは僕が想像していた料理の世界とはほど遠かった。今度は自力で違うレストランを探し、就職。ここで初めてフランス料理の手ほどきを受けた。僕はフランス料理を知れば知るほど本格的に学んでみたいと思うようになり、どんどんのめり込んでいった。-
コック見習い中(17歳)
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トップフードの仲間たちと(17歳)
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趣味の登山(18歳)
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趣味の登山(18歳)
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日本での修業時代
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ホテルニューオータニでの修業時代(20歳)
ホテルニューオータニでの修業は意味のあるものだったが、反面、物足りなさも感じるようになっていた。確かにレシビどおりに料理も作れるし、見栄えも美しい。でも何かが足りない、そこには独創性がないんだと感じたのだ。個性を出せる料理が作りたいと思った。そして、だんだんフランスで本格的に料理を基礎から学びたい、料理の真髄を知りたいと切望するようになってきた。 -
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恩人との出会い
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恩人の桂洋二郎さん
28歳になったとき、フランス料理を学ぶためオーナーの桂さんに辞めたい旨を申し出た。さんざん説得された翌日、桂オーナーから「1か月間、フランスに行って来い。金は出す」というありがたいお言葉をいただき、初めての海外旅行に出発した。 -
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いざフランスへ
夢にまでみたフランスに到着。見るもの、味わうもの、感激至極、感動の嵐だった。
トゥール・ジャルダン、マキシム、タイユ・ヴァンと三星レストランを食べ歩き、リヨン、ニース、マルセイユを旅した。リヨンでのポール・ボキューズのレストランでは、感激のあまりに3回も食べに行って、何とかここの厨房で働きたいと思ったものだった。
既に頭の中は、フランスで修業するためのこれからの計画でいっぱいだった。 -
イタリア料理人に宗旨替え
ローマに着いたときは「ゴミゴミしたところ」という印象。街のレストランで出される食事は同じメニューばかりだし、美的センスの欠片もない盛り付けにゲンナリ。とか言いながら、毎日違うレストランに行って食べ続けた。そして、この4日間にイタリア料理を飽きずに食べている自分がいることの気がついたのだ。イタリアの飯は、毎日食べても飽きない、これは目からウロコだった。食事とは本来そういうものだと、初めて気が付いた瞬間だった。これは、フランス料理人からイタリア料理人に宗旨替えする十分な理由だった。
毎日食べても飽きないおいしい料理を作ろう、おいしい料理を食べる喜びをお客さまに知ってもらおう、僕の前に新しい世界が開かれた。
ちょっとフランス料理の言い訳をするなら、毎日有名レストランばかり選んで食べていたから、昼夜と食べ続けるのがきつかったのかもね。これは自分のせいだ、フランス料理が悪いわけではない。 -
1年間のイタリア語学習のあとイタリアへ
日本に帰って、さっそくイタリアンレストランへ行ってみた。ところがどうだろう、僕がイタリアで食べた味とはぜんぜん違う、根本的に違っている。
僕は桂オーナーに、イタリアで食べたイタリア料理のすばらしさを説明し、イタリア料理を学びたいことを相談した。意外なことに、桂オーナーからは「好きなだけ行って来い」と超が付くありがたい言葉をまたもいただいた。とは言っても、すぐに出発とはいかないので、1年間のイタリア語学習のあとイタリアへ旅立ったのだ。 -
イタリアでの料理修業
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最初の店「チェレスティーナ」の厨房にて
ローマでは、「チェレスティーナ」で修業開始。「チェレスティーナ」には、突然飛び込んで片言のイタリア語で「日本人です。ここで働きたい」と必死で説明した。もちろんジェスチャー付きだ。無給ならということで1か月の約束で仕事を確保したのだが、1か月を過ぎる頃にはそのまま見習いとして働けるようになった。結局8か月あまりもここにいたんだ。給料も他の料理人の半分位だったが、日本円で7万円程度もらえた。7万円あれば、3万円のアパート代を差し引いても十分だった。
「お金はいらない、働きたい、飯だけ食べさせて」を条件に、イタリア各地のレストランで働いた。当時、イタリアのリゾート地では日本人、というか東洋人が少なかったから珍しがられて、僕が給仕に出るとイタリア語がしゃべれる日本人ということでお客さまの間で評判になることもあった。
有名人が密やかにやってくる「隠れ家的レストラン」でも働いたことがあった。どこの馬の骨だかわからない東洋人だったが、イタリア各地のレストランで働いていたことを話すと、許可がおり、レストランの2階を住まいとして提供してくれた。LA BETTOLAで出している料理は、こんなイタリア人との出会いと思い出と愛情で作られている。本当にイタリア人って暖かい。
イタリアには、1978~1981年の約3年間いたのだけど、ずっと行きっぱなしではなく、ときどき貧窮状態になって、資金稼ぎに日本に帰って稼いでまた行くという、逆出稼ぎの状態だった。修業したホテル・レストラン名
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ローマ
- チェレスティーナ
- アルチェッポ
- コンテヴェルデ
- アンバシャータ アブルッツォ
- セッテコッリ
- トウリオ
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ナポリ イスキア島
- エルマホテル
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シチリア・パレルモ市
- グルマンズ
- ラ・スクデリーア
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シラクサ市
- トラットリア アルキメデ
- レストラン ミノッセ
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カステリーナ イン キャンティ
- ダ・トッレ
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フィレンツェ
- ホテル ミケランジェロ
- ホテル アストリア
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ボローニャ
- ディアナ
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フェラーラ市
- ファンタスティコ ジョベディ
- トラットリア ダ イド
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ベネチア
- ドウ フォルニ
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他多数
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グラナータでの一生の思い出
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右側サングラスの男性がフランチェスコ ランドウッツィーさん
まだ、イタリア料理どころか「パスタ」という言葉さえ一般的でなかった時代だ。オープン記念の2日間はまずまずの入りだったが、その後がいただけない。まったくお客さまが入らないのだ。僕は迷って自信を失いかけていた、日本風イタリア料理に切り替えるべきか。でも桂オーナーは「わかってもらえる」「常に本物を出す」と最初の方針を曲げなかった。生涯で初めて2度も胃潰瘍になったのも、このときだ。
閑古鳥は半年から1年余り続いたが、イタリア政府観光局の局長フランチェスコ ランドウッツィーさんが来店してから事態が一変した。彼のクチコミで在日イタリア人や大使館の方が見えて、日増しにグラナータは活気を帯びてきた。そして、1984年に大ブレイクが起こり、予約ができない状態に!
僕が思うに、イタリア人は他の国の料理っていうのを認めない。俺が食いたいのはイタリア料理だ!って思っているから、本場のイタリア料理をどこでも食べたいんだね。 -
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LA BETTOLA開店までの経緯
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LA BETTOLA da Ochiai
辞めたあとは、勤めているときはできなかった「食べ歩き」だ。何がおいしいと言われる理由なのか、行列ができる原因なのか、それが知りたかった。
1997年9月、ついにLA BETTOLAがオープン。
LA BETTOLAでは、夜は1人前3800円(税抜価格)のセットメニューになっている。前菜、パスタ、メイン、ドルチェを各20種類ほど用意して、どんな料理を頼んでも金額は変わらない。これを頼むと追加いくらというのは好きじゃない。結局、高くなってしまったのではセットメニューの意味がないし、お客さまに申し訳ない。何だか詐欺っぽくないか? だから潔く同じ料金で行こうと思っている。それより何度も足を運んでもらうほうが僕はどれだけ嬉しいか。 -